最終更新日 2023年7月21日
長岡空襲関連史跡(※冬期間は積雪のため近付けない場所があります。)
①模擬原子爆弾投下地点跡地の碑(左近町、永代橋付近)
②柿川戦災殉難地の碑(柳原町、柳原公園)
③戦災殉難者慰霊塔(表町1、平潟公園)
④平和像(本町3、平和の森公園)
⑤長岡空襲爆撃中心点の碑(坂之上町3、明治公園)
⑥戦災殉難者之墓(四郎丸4、昌福寺)
1945(昭和20)年7月20日午前8時13分。左近町(当時は上組村大字左近)の畑に1発の爆弾が投下されました。
4人の人々が一瞬にして生命を失い、5人のけが人が出るとともに、全壊2戸のほか、残り29戸のすべての家が大きな損傷を受けました。
そのとき投下された爆弾は、1945(昭和20)年8月9日に長崎に落とされた原子爆弾と同型(パンプキン型)、同重量(約5トン)の、いわゆる模擬原子爆弾であったことがわかりました。本番前の投下訓練として長岡が選ばれ、津上(つがみ)製作所を目標としていましたが、誤って左近に投下されたことも分かりました。
柿川戦災殉難地の碑は、柳原町の柳原公園内(柿川の丹波橋側)にあります。
碑の高さは約1m。空襲当時、153名の人々が亡くなった神明神社の境内だったところに碑は建っています。
碑は、「清き柿川の辺り柳原町神明社境内で、1945(昭和20)年8月1日夜、太平洋戦争において此の地に空爆死された犠牲者の冥福を祈り、命日五十回忌を期に哀悼の意を捧げる。(後略)」と刻まれています。
戦災復興のまちづくりが進むにつれ、市民の間に、空襲で亡くなった人が297人と最も多かった平潟神社の境内内に慰霊塔を建立しようという運動が始まりました。1958(昭和33)年3月、市議会に「慰霊塔の建立補助請願」が提出されました。そして、一般からの寄附と市及び県の補助金によって、同年11月に戦災殉難者慰霊塔が建立されました。慰霊塔には「このような不幸を再び繰り返さないよう願いをこめて」と刻まれています。その後、老朽化のため戦災50周年に当たる1995(平成7)年に修復し、現在地に移転しました。
長岡空襲の犠牲者1,480余名の中には、280名あまりの学童が含まれていました。このいたいけな学童たちの霊を慰めるため、県教職員組合は全県下から募金を募り、集まったおよそ150万円をもとに像を作りました。慰霊と平和への限りない願いを込めて「平和像」と名づけられ、1951(昭和26)年11月に長岡駅前広場に設置されました。
その後、この平和像は悠久山公園、明治公園と移転しましたが、1996(平成8)年、市民の平和への願いのシンボルとして新しく完成した平和の森公園に安住の地を得ました。
平和像の中には、銅版に刻まれた「昭和二十年八月一日長岡市戦災学徒名簿」が納められています。
平和の森公園と、そこに植樹されている被爆アオギリ二世については、こちらをご覧ください。
長岡空襲では焼夷弾の投下によって、市街地の約8割が焼け野原となりましたが、アメリカ軍の資料から、爆撃の作戦が明らかになりました。
アメリカ軍は1945年6月に長岡地域を空撮し、作成した航空写真に爆撃目標範囲となる半径4,000フィート(約1.2km)の円を描き、その円の中心を狙って爆撃する作戦をとったのです。
その中心点にあたる明治公園内に碑があります。
身寄りが分からない遺体は合同で荼毘に付されましたが、遺骨の埋葬場所はなかなか見つかりませんでした。そうしたなかで、四郎丸の昌福寺が埋葬場所の提供を快く引き受けてくれることとなり、1945(昭和20)年9月に遺骨はようやく埋葬されました。そして、1947(昭和22)年9月には、市民の寄附により墓碑が建立されました。墓の正面には「戦災殉難者之墓」、裏面には「昭和二十年八月一日当市戦災 殉難者市長ほか千百四十名 茲に有志相計り全市民の浄財を以って永く菩提を弔う」と刻まれています。
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