最終更新日 2023年6月30日
まちづくりの原点となった地
「米百俵プレイス ミライエ長岡」の建設される地は、明治3年(1870)6月15日に移転・開校した国漢学校の跡地という歴史的な場所です。戊辰戦争後の長岡藩は、学校・武場(国漢学校)、政事堂(役所)、藩主牧野氏の住居をこの地に一体的に整備し、近代的なまちづくりの原点としました。その後、明治・大正期には市役所・銀行などが建設され、戦後には現代アートの先駆けとなった「長岡現代美術館」や商工会議所などが立地し、産業や文化の振興拠点としても発展してきました。
国漢学校と米百俵の精神
▲小川当知「懐旧雑誌」挿絵
明治初期の大手通り(左上への道が
長岡駅に至る)の様子が描かれている。
左下の建物が国漢学校
互尊文庫の理念
▲大正7年(1918)に東坂之上町に
開館した初代互尊文庫
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