8月1日の夜――空襲が始まり、家の裏にあるお寺がひどく燃えたため、急いで逃げる準備をしました。弟をおんぶする母に祖母が付き添い、私と姉と祖父は一足先に逃げました。消防署に勤めていた父は家にいませんでした。
学校近くの雪しか※を目指しましたが、外は一面火の海。どの道も通れないのです。なんとか逃げ道を探して学校のグラウンドにたどり着き、母たちと再会することができました。しかしその時の母は、服の袖が燃えてなくなり、腕にひどいやけどを負っていました。髪の毛も焼けてチリチリの状態です。痛々しい母の姿を、怖くてちゃんと見ることができませんでした。
熱く焼けた地面の上を靴下で歩いた
朝になると、村松町の父の実家から伯父が来てくれました。母が動けそうになかったため、伯父がリヤカーを持ってもう一度来ることになりました。そして母と弟を世話するために祖父は残り、祖母と姉と私は一足先に父の実家へ歩いて向かいました。
出発する時、祖母に「良いと言うまで、これを目に当てていなさい」と畳んだタオルを渡されました。祖母に手を引かれながら、なぜこうしなきゃいけないのかと思い、タオルを少し上げてみたんです。すると、足元にたくさんの遺体が横たわっていました。慌ててまた目を隠して、そこを通り過ぎました。
空襲から逃げた時、私は田んぼに足をとられて片方の靴をなくしてしまいました。焼けた地面の上を靴下で歩いたため、足がとても熱かったのを覚えています。摂田屋まで行くと焼けていない家があり、そこの人に草履を一足譲ってもらいました。それを履いて、また残りの道を歩きました。
母と弟はずっと寝たきりです。苦しんでいる母を見るのはつらかったです。私は母の足元に行ってはころころ転がって、泣いてばかりいました。弟は母のそばに寝かせてあげました。後から聞いた話では、弟のお腹は膨れて真っ黒になっていたそうです。逃げている間にガスを吸ってしまったのでしょう。
母は8月4日に、弟は7日に亡くなりました。慣れないことばかりで体を壊したのか、12月に祖父も胃がんで亡くなりその年はお葬式が3回。お医者さんも出征していて、なかなか連絡が取れないんです。苦しむのを見ていることしかできませんでした。
一人で悲しむ子どもがいない世の中に
これまで、人前で戦争のことは語らずにいました。しかし戦争から75年が経ち、語り部の方が少なくなる中で私の経験が少しでも役に立てば、という気持ちを抱くようになりました。そんな時に声を掛けていただき、こうして話ができるのはありがたいことです。
今思うのは、もう二度と戦争はしてほしくないということ。私は母を早くに亡くしましたが、姉や親戚のおかげで一人になることなく育ちました。だからこそ、一人で悲しい想いをする子どもがいなくなることを願います。大人も子どもも、争い事がなく、仲良く暮らせる世の中であってほしいです。 |
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当時は千手国民学校(現・千手小学校)3年生で、祖父母と両親、姉、弟の7人家族。長岡空襲で母(43歳)と弟(4歳)の2人を亡くしました。
▲佐藤剛正さん画「黒焦げの遺体」。空襲後、道路にはたくさんの焼死体が見られました
▲斎藤洋子さん画「親切な綿靴」。裸足で歩いていたところ、親切な人が布団の綿で足を包んでくれました |