最終更新日 2021年12月27日
撮影時期:昭和16年(1941)から昭和19年(1944)頃
所蔵:新潟県立長岡大手高等学校 カラー化:庭田杏珠
白線を左右に動かすと白黒とカラーを見比べることができます
戦時に咲く笑顔の輪
戦時中の日常にあったふとした瞬間の笑顔や、焼け野原からの再出発の様子が鮮明になった。長岡市などが1945年の長岡空襲前後の白黒写真をカラー化した取り組みでは、人々の表情や街の息づかいがよりリアルに伝わってくる。新たに完成した写真を、空襲体験者らの声を交え、1枚ずつ紹介する。
女学生たちの笑い声が聞こえてきそうだ。長岡高等女学校(現長岡大手高)の生徒が食糧供出のため、サツマイモを掘った際の写真。撮影時期は41~44年の間で定まらないが、場所は今朝白町(現今朝白)にあった女学校の実習地だ。
女学生たちは一様に白いかっぽう着と紺色のもんぺ姿。奥に見える荷車に載せている俵や箱に収穫したサツマイモが入っているとみられる。重すぎて男性が荷車をうまく引けなかったのだろうか。女学生たちが男性の方を向いて面白そうに笑っている。手前右には「空」の字が書かれたバケツがある。防空訓練で使うものだったかもしれない。
空襲当時1年生だった櫻井信子さん(89)=長岡市川崎1=も農作業や軍服のボタン付けといった勤労奉仕を経験した。「田んぼに入ってもキャーキャー騒いでたかな。箸が転んでもおかしい年頃だったから」と懐かしむ。
内気な性格だったが、友達に恵まれた。郊外の山から暖房で使う薪を担いで学校に運ぶ作業は、細身には耐えられず、みんなで道中に薪を一本、また一本とそっと落とし、笑い合った。戦時中でも日常の中に楽しいことが確かにあった。
戦況が悪化し、授業はなくなっていった。櫻井さんは長岡空襲で被災し、一緒に逃げた最愛の母を失った。臨終の直前、苦しむ母に何もしてあげられなかった後悔を今も胸にしまっている。長岡大手高の創立百周年記念誌によると、女学校でも生徒40人の命が奪われた。
「亡くなった人、家や家族が焼かれた人もいたのかもしれないね。みんなこの後、どんな人生を送ったのだろうか」。同窓生の写真を見つめ、つぶやいた。
(新潟日報 令和3年12月17日朝刊18面より)
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