最終更新日 2021年12月27日
撮影時期:昭和19年(1944)から昭和20年(1945)頃
提供:川崎晶子氏 カラー化:庭田杏珠
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寄り添う心 笑顔生む
あどけない笑顔がこぼれた。東京の松原国民学校(現世田谷区立松原小)の児童が、栖吉村(現長岡市)の普済(ふさい)寺に疎開した時の一枚だ。こたつに入り、カードゲームなどに興じる児童の柔らかな表情から和やかな雰囲気が伝わってくる。
太平洋戦争で空襲が激化すると、都会から地方へ学校単位の疎開が進んだ。松原国民学校は1944年8月、栖吉村への学童疎開を始めた。2回に分けて児童計約170人が身を寄せ、45年10月に帰京した。普済寺には約60人が滞在した。
写真は正月のだんらんの様子だろうか。児童は大きなこたつでくつろぎ、かるたやトランプのようなもので遊んでいる。男子は丸刈り、女子はおかっぱ頭でそろっている。現在の寺に協力してもらい、中央に写る金子弘則住職のけさや部屋の色を再現した。
当時4年生で寺に疎開した半田益世さん(87)=東京都=は「親に会いたい気持ちはあっても、嫌な思いは何もなかった」と語り、迎えてくれた金子住職に感謝している。本堂で寝泊まりしたが、体調を崩すと、住職の居室に入れてもらって看病を受けた。スキーで通学したり、食用のイナゴを捕まえたりしたことがいい思い出だ。「行けるものならば、もう一度行きたいわね」と感慨を込める。
左に写るかっぽう着姿の女性は岡地美枝子さん。地元の看護師で寮母役を務めた。岡地さんの長女川崎晶子(まさこ)さん(69)=佐渡市=は、岡地さんが2010年に亡くなるまで写真を大事に保管していたと振り返る。戦後、当時の児童が自宅に会いに来たり、岡地さんが同窓会に招かれたりと交流は続いた。愛情深い母だった。かっぽう着の下の着物は紫の麻の葉模様。岡地さんがよく着ていたという。
笑顔の児童を見守る住職のまなざしは穏やかだ。岡地さんは男児の肩に手を添えている。親元を離れ、不慣れな土地で暮らす児童への優しさが感じられる。「子どもや女性はこうやって寄り添って、平和が来るのをじっと待っていたんでしょうね」。川崎さんもその平和がずっと続くことを願っている。
(新潟日報 令和3年12月23日朝刊18面より)
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