最終更新日 2021年12月27日
撮影時期:昭和20年(1945)8月3日
所蔵:長岡戦災資料館 カラー化:渡邉英徳
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粗末な小屋で再出発
1945年8月1日の長岡空襲では米軍の100分に及ぶ焼夷(しょうい)弾攻撃で、長岡は建物全体の約8割に当たる1万1986戸が焼失した。身寄りがなかった市民は焼け野原にバラックを建て、雨露をしのいだ。
写真は8月3日、市中心部で撮影された。屋根だけの簡素な建物で子どもを背負った女性ら3人がたたずんでいる。奥の白いシャツの男性はバラックを建てている最中だろうか。工具のような物を持っている。空襲直後、焼け跡でのありふれた日常の光景だろう。
バラックは、焼け残った柱や立ち木、トタンなどをかき集めて作った。出征で男手がなく、苦労した家も多かったという。
空襲で自宅が全焼した土田ミヨさん(87)=下条町=も親戚を転々と頼る途中、バラックに寝泊まりしたことがある。写真のような粗末な造りだった。壁はなく、わらで編んだむしろを敷いた寝床に、くぎ穴を通る月明かりが差し込んだ。「行き所のない人はみんなこうしていた。私たちは食べ物も着る物も何もなかった」と振り返る。
土田さんは7人きょうだいの末っ子。父は当時既に他界していた。兄3人は出征し、母と姉3人の女手だけで空襲後を生き抜いた。焼け跡から見つけた鍋で煮炊きし、本家の蔵で見つかった野菜のみそ漬けがありがたかった。
街の復興は急ピッチで進んだ。長岡市史によると、空襲から1年で一般住宅は約半数が再建。53年には全国の戦災都市で最も早く復興都市計画事業の完工式にこぎ着けた。街並みは近代的な外観に整備された。
土田さん一家は46年春に自宅を再建。兄3人のうち海兵だった2人は帰って来なかった。「あの時があって今があることを知っておいてほしい」。カラーになった写真に願いを込めた。
(新潟日報 令和3年12月18日朝刊18面より)
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