最終更新日 2021年12月27日
撮影時期:昭和20年(1945)8月2日早朝
所蔵:長岡戦災資料館 カラー化:渡邉英徳
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悄然 それでも生きる
1945年8月2日の早朝、長岡市の目抜き通りの大手通りを人々が行き交っている。前日深夜の長岡空襲によって街に立ちこめる煙か、写真自体の画質のためか、全体的にくすんで見える。色彩は乏しいが、手前の布団のような物や荷物に緑や茶などの色がついた。
右奥に写るのは長岡警察署。空襲を体験した山谷恒雄さん(89)=弓町1=によると、周囲に建物がないのは、重要施設などへの延焼を防ぐため、あらかじめ家屋などを移す「建物疎開」が行われたためだ。
左奥の長岡駅方面に向かって歩く人の流れが確認できる。写真には入っていないが、手前に焼け落ちた市役所の仮事務所となった北越製紙本社が位置し、座り込む人々は罹災(りさい)証明の発行を待っているとみられる。
「長岡の空襲」によると、鶴田義隆市長が殉職したものの、市は2日午前4時に仮事務所を借用し、職員に集合するよう呼び掛けた。午前5時には県警察部長が「市民は不撓不屈(ふとうふくつ)、常在戦場の山本魂に徹し、猛然奮起せられむ事を望む」と布告。地元出身で連合艦隊司令長官だった山本五十六を引き合いに激励した。
市民はどのような思いで空襲の翌日を迎え、過ごしたのだろうか。当時13歳だった山谷さんは、東弓町(現弓町1)の自宅が全焼し、「あれこれ考えるゆとりはなかった。悄然(しょうぜん)としていた」と振り返る。未明に親戚宅にたどり着き、一寝入りした後、通っていた長岡工業学校(現長岡工業高校)や分家の状況を見に出掛けた。
交差点に炭化した遺体が横たわり、防空壕(ごう)の中でまだ生きているかのような親子が身を寄せ合って息絶えていた。ひたすら手を合わせた。学校では、不発弾と思われた焼夷(しょうい)弾が爆発し、近くにいた級友が犠牲となった。
「焼け出されて右往左往していた。それでも親戚がどうなったのか、家は残っているのか、行くべきところに行かなければという思いだったろう」。空襲後を生きる人々の写真に見入った。
(新潟日報 令和3年12月22日朝刊16面より)
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