最終更新日 2021年8月10日
撮影時期:昭和22年(1947)7月4日
所蔵:長岡市立千手小学校 カラー化:渡邉英徳
白線を左右に動かすと白黒とカラーを見比べることができます
多彩な服装 緊張の面持ち
1945年8月1日の長岡空襲やその前後の白黒写真をカラー化する長岡市などの取り組みで、47年に撮影された千手小学校2年6組の集合写真の彩色が完成した。人工知能(AI)の活用と当時の児童3人の聞き取りで、実際に近い色合いを目指した。女の子の服装の多彩さや緊張気味の表情がより鮮明になった。物資の不足などは続いていたが、3人は「みんなと一緒に学校に行けることがうれしかった」と懐かしんだ。
長岡空襲では、米軍による無差別爆撃で市街地の8割が焼失し、前月の「模擬原爆」の被害と合わせ、1488人が亡くなった。千手町1(現千手2)の千手国民学校も焼けた。創立100周年の記念誌によると、児童1237人のうち96%が被災し、18人が犠牲となった。
聞き取りに協力したのは、いずれも長岡市の今泉恭子さん(81)、今泉重夫さん(82)、大橋操さん(82)。3人も空襲で住まいを失った。
校舎を新設し、千手小として再開された後の写真では、兄のお古が多かったという男児とは対照的に、古着などを仕立てた女児の服装は色や柄が豊富だ。恭子さんの花柄でピンクのワンピースは、疎開先で叔母がカーテンを使って作ってくれた。他に着る服がなかったため、色合いを含めて記憶に残っていた。
授業でイナゴを捕まえて売り、学用品購入の足しにしたこともあった。恭子さんは「とにかく物がなかった。こういう時代もあったと若い人にも写真を見て分かってほしい」と語る。
学校では屋内外問わず素足が普通だった。校舎の入り口には足の洗い場もあった。重夫さんは「廊下はよく水でグショグショになっていた」と振り返る。勉強の記憶は乏しいが、野球、チャンバラ、鉛拾いと遊びの思い出は尽きない。「友達ができるのが何よりうれしかった」と実感を込める。
写真に写る児童は54人。大橋さんは、級友や担任の先生の印象をよく覚えている。「みんな(境遇が)一緒だったから、仲が良かった気がする。分け隔てがなくてね」と思い返す。焼けた自宅跡からは46本の焼夷(しょうい)弾の筒が見つかったが、親子3人とも無事だった。家族がいる、友達がいる幸せをかみしめた。
(新潟日報 令和3年7月19日朝刊28面より抜粋)
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