最終更新日 2021年3月5日
撮影時期:昭和12年(1937)
所蔵:清水誠一氏 カラー化:渡邉英徳
白線を左右に動かすと白黒とカラーを見比べることができます
「めでたい」父出征の宴 一張羅着て戦禍の影なく
一家の大黒柱を戦争に送り出す身内の表情に、暗い影は感じられない。日中戦争が始まった1937年、清水誠一さん(88)=長岡市弓町2=の父健治さんが陸軍に志願して中国に渡る前に撮影した祝宴の写真をカラー化した。誠一さんは「色合いは本物にそっくりだ。白黒をずっと見てきたが、こっちの方が懐かしい」と目を輝かせた。
宴は現在の自宅とほぼ同じ場所にあった清水家に親族や父の友人を招き、にぎやかに催した。宴会好きの父は一張羅のちょうネクタイで臨み、既にほろ酔い顔だ。当時36、37歳。周囲の女性たちは旭日旗や紅白の旗を手に、ほほ笑む。
健治さんの隣で親族に抱えられた当時4、5歳の誠一さんも、父の出征は国を守る名誉なことだと信じていた。「大人になったら兵隊に行くもの。『ああ、いかった』と思ったよ」と語る。
健治さんの周りにはとっくりが並び、盆には魚料理が見える。当時のごちそうといえば、焼いたイワシや野菜の煮物、のっぺなどだったという。
清水さんは日中戦争が始まった頃と、41年の太平洋戦争突入後では、兵士の壮行時の雰囲気が変わったと感じた。「最初は『めでたい』と言っていたのが、だんだん戦局が悪くなってくると、若い人は悲壮だったのではないか。本当の気持ちは」と思い返す。
健治さんは中国南西部の重慶の辺りに出征し、幸い終戦までに無事帰ってきた。酒を飲むと好んで軍歌を歌うようになったという。「ここはお国を何百里離れて」。誠一さんがふと、歌の一節を口ずさんだ。
「戦意高揚のための歌で、みんなが踊らされていた」とつぶやいた。
(新潟日報 令和2年12月6日朝刊12面より)
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