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トップ > くらし・手続き > 文化・スポーツ・生涯学習 > 平和関連事業 > 長岡戦災資料館 -学生ボランティア通信-

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長岡戦災資料館 -学生ボランティア通信-

最終更新日 2021年11月15日

学生ボランティア通信-戦災の記憶を繋ぐ私たちのことば-

「戦災資料館に行ってみよう ~親子で学ぶ『長岡空襲』~」に参加して(掲載日R3.11.15)

こんにちは。学生ボランティアのFです。

さて、私は8月8日に「戦災資料館に行ってみよう ~親子で学ぶ『長岡空襲』~」に参加しました。定員よりも多くの方が参加してくださり、小学生とその保護者の方だけでなく、中学生の方も参加してくださいました。
最初に、参加者は2つのグループに分かれて、それぞれ館内見学や、長岡空襲についてのお話を聞きました。「長岡空襲殉難者遺影展・戦災住宅焼失地図展」も行われていたため、長岡空襲についてのお話の後、各自、自由に展示を見ました。遺影も地図も小学校区ごとで展示されているため、参加者の方は自分の小学校区でどのような人が亡くなったのか、どれほどの住宅が焼失したのかを興味深そうに見られていました。実際に長岡空襲を体験された方の絵や模擬原子爆弾の模型についても展示されていましたので、そちらを見られる方もいらっしゃいました。
その後、戦争に関する本の紹介をしていただき、紙芝居を見ました。長岡空襲体験者の女性の証言に基づく「みちこのいのち」という紙芝居です。長岡空襲が始まり、女性はみちこちゃんを連れて逃げましたが、逃げた先の柿川で水の上を走る炎によりみちこちゃんは大火傷を負い、亡くなってしまいます。その後、女性はみちこちゃんを自らの手で荼毘に付しました。目の前で我が子を失い、自らの手で我が子を荼毘に付す悲しみは計り知れません。また、紙芝居の最後に長岡まつりの花火が打ち上げられるシーンがありますが、作中で打ち上げられる花火の音と空襲で落ちてくる焼夷弾の音が非常に似ていることに驚きました。長岡空襲を体験された方は「花火を打ち上げた音が空襲で落ちてきた焼夷弾の音と同じに聞こえる」と仰るというお話を聞いたことがありますが、実際どの程度空襲と花火の打ち上げ音が同じに聞こえるのか知りませんでした。紙芝居を見て初めてこれほどまでに似ていることを知りました。
戦後70年以上が経ち、戦後復興もなされ、平和な時代とはなりましたが、戦争が人々に残した傷は今尚消えていないのだと感じました。

「長岡空襲解説講座 ~長岡空襲の事実を知ろう~」に参加して(掲載日R3.11.15)

はじめまして。学生ボランティアのFです。
私は昨年の4月、大学進学を機に岐阜から新潟へ来ました。私自身と長岡市との間に直接的なつながりはありませんが、出身地である岐阜市と長岡市には太平洋戦争の際に空襲を受けたという共通点があります。長岡空襲を学ぶことで、地元岐阜の各地で行われた空襲などの戦災ついても知っていきたいと思っています。よろしくお願いします。

さて、私は7月17日に「長岡空襲解説講座 ~長岡空襲の事実を知ろう~」に参加し、長岡空襲についての話や、新たに判明した事実などを学びました。講座が始まり、星さんが「長岡の人は強い」と仰られたとき、恥ずかしながらその理由が分かりませんでした。私自身、長岡出身でもなければ長岡空襲に関しても無知だったからです。しかし、講座を聞かせていただくことで、少しずつその意味が分かりました。長岡空襲が行われた8月1日から8月2日にかけての一夜で長岡の町から約5万人もの人が去ったこと。8月2日の早朝には空襲で亡くなった家族を火葬をするため、早朝から並び市役所で死亡届を貰おうとする家族。空襲の数週間後に行われていたと思われていた市民による市が実際は空襲後数日で行われていたこと。空襲を受け、家を失い、家族や親しい人たちを亡くしたにもかかわらず、その直後に長岡を離れるという決断、亡くなった家族の火葬のため市役所で死亡届を貰うなど、長岡の人々がとった行動は並大抵のことではないと感じました。長岡の人の強さが表れたのは上記のような空襲直後のことだけでなく、戦後の復興についてもです。日本全国各地で空襲などの被害を受けましたが、どこよりも早く復興したのは長岡です。空襲の翌年、昭和21年8月1日には長岡復興祭も開催されました。長岡復興祭は長岡まつりと名前を変え、今尚続いています。私は、以上の話を通じて、星さんが「長岡の人は強い」と仰られた意味を理解することができました。

皆さんご存知の日本三大花火大会の一つである長岡まつり。長岡まつりは長岡空襲を起源とし、その前身は長岡空襲の翌年に開催された長岡復興祭です。去年、今年とコロナの影響もあり、長岡まつりは開催されていませんが、開催された際には夜空に咲く花火を眺めるだけでなく、花火に込められた先人たちの想いや平和についても考えていただけたらと思います。

平和祈念展示資料館でシベリア抑留を学んで(掲載日R2.1.7)

はじめまして。
長岡戦災資料館学生ボランティアの「m」です。昨年の3月、長岡市内の高校を卒業し、大学進学で東京に上京しました。この「学生ボランティア通信」では、関東近辺などの戦災資料館へ赴き、見たこと感じたことを学生目線でありのままに発信していけたらなと思います!よろしくお願いします。

さて、私は8月21日に東京都庁近くの平和祈念展示資料館へ行き、シベリア抑留について学んできました。長岡に住んでいた頃は、空襲について学ぶ機会が多く、シベリア抑留について目を向ける機会がなかったので、初めて知ることが多く、空襲とはまた違った恐ろしさを感じました。抑留された日本兵は「1つのパンを数十人で分け合う・マイナス40度にもなる現地でひたすら線路や学校を造らされる」などといった、奴隷のような扱いを受け、たくさんの兵士が衰弱し、労働中に亡くなる人や寝たまま亡くなった人もいたそうです。毎日のように仲間の埋葬をしており、心身の感覚全てが麻痺していったという体験談もありました。遺体・遺骨は日本に帰ってきていないものが多く、現在もシベリアの様々な所に埋まったままになっているそうです。
昭和20年8月15日に終戦を迎えてから日本本土がアメリカに占領されていたという事実は多くの人が知っていると思いますが、シベリアで日本の兵士たちが生死をさまようほど苦しめられたという事実があったことを知る人はあまり多くはいないのではないのでしょうか。この記事が、多くの人にシベリア抑留について知ってもらえるきっかけになると嬉しいです。

「シベリア抑留」の画像1
「シベリア抑留」の画像2

長岡空襲殉難者追慕の集いに参加して(掲載日R1.7.22)

こんにちは。
長岡戦災資料館学生ボランティアのN.Kです。
私は、7月7日に「長岡空襲殉難者追慕の集い」に参加しました。
幼いながらに父と弟を亡くしたとという星野榮子さんによる体験談をお聞きし、家族を失った悲しみや戦争のむごさがよく伝わってきました。
もしも自分が同じ立場にあったらと考えるととても胸が痛くなりました。
最後には、長岡少年少女合唱団の歌と共に空襲の犠牲者に哀悼の意を表しました。
空襲で亡くなった方の無念、多くの犠牲の上に今の平和がなりたっているということを忘れてはいけないと感じました。

「長岡空襲殉難者追慕の集い」の画像

はじめまして(掲載日R1.6.10)

はじめまして。
長岡戦災資料館学生ボランティアのN.Kです。
この「学生ボランティア通信」では、私たちの活動内容や気づいたこと、学んだことなどを紹介していきます。
よろしくおねがいします。

さて、私は5月25日に「長岡空襲の体験を聞く会」に出席しました。
はじめて長岡空襲体験者のかたの体験談をお聞きし、内容の重さに少しおののくところもありましたが、空襲の恐ろしさや惨事、当時の人の苦しみが詳しく伝わってきました。
実際に体験した方のお話はとても貴重なもので、空襲を知り伝えられる人が少なくなっている今、私たちにできることは戦争の罪の重さ、命の尊さを「知る」こと。
そして、後世に語り継ぐことが大切だと感じました。

「長岡空襲の体験を聞く会」の画像

このページの担当

庶務課
〒940-8501 新潟県長岡市大手通1-4-10(アオーレ長岡東棟)
TEL:0258-39-2203  FAX:0258-39-2275

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