最終更新日 2024年1月1日
すさまじい長岡空襲
長岡空襲による被害状況
現在の人口 (R5.7.1現在) |
259,475人 |
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罹災時の人口 (S20.7月) |
74,508人 |
空襲開始時刻 | 8月1日午後10時30分 |
爆撃機の数 | 125機 |
投下爆撃量 | 924.3トン |
死者数 | 1,488人 |
焼失戸数 | 11,986戸 |
資料館に寄せられるよくある質問
Q1 なぜ県下で長岡だけが空襲されたのですか
A アメリカ軍は1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲以来、焼夷弾(しょういだん)で日本の都市を無差別に爆撃する方法に転換しました。人口の多い大都市からだんだん少ない地方都市へ攻撃したのです。長岡は県下で人口が2番目に多く、交通の要衝(ようしょう)で、兵器を作る工場がたくさんあり、石油も産出するところだったからでした。
Q2 長岡より人口の多い新潟市がなぜ空襲されなかったのですか
A アメリカ軍は1945(昭和20)年に入ると原子爆弾攻撃の実行計画を立案しました。その投下予定地として京都・広島・新潟・小倉・長崎の5都市を選んでいたため、新潟市への焼夷弾攻撃は行われなかったのです。
Q3 空襲に備えて、どんな準備をしていたのですか
A 市民は各自いつも防空頭巾(ぼうくうずきん)・救急袋を用意していました。空襲警報のサイレンが鳴ると身に着けて、縁の下や空き地に作られた防空壕(ぼうくうごう)に避難しました。また、各家の前に防火用水や火たたきが用意されていました。各町内では神社や広い空き地に大きな防空壕が作られていました。
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