ここは、北越地方の豪族五十嵐氏の邸宅跡を史跡公園にしたものです。
鮮やかな緑と石の調和が見事な園内は、散策コースにうってつけ。五十嵐氏は、大同元年(806)先祖忠利が姓を賜り常陸守に任ぜられ、三代佐衛門尉利忠の時、越後守として当国へ赴任せられたといわれます。
菊屋と称し、佐渡へ配流となった都の貴人をはじめ、文人墨客との交流を代々続けてきました。順徳院、源義経主従、中納言藤原為兼、江戸時代の漢学者・亀田鵬斎など、その顔ぶれは多彩です。
またここには佐渡へ遷御された順徳上皇が、風待ちのためしばらくご滞留になられた際の行在所跡があります。
所在地 |
長岡市寺泊二ノ関2728番地2【地図】 |
アクセス |
・JR長岡駅大手口バス停12番線またはJR寺泊駅バス停より、坂井町行きに乗車「大町」下車 徒歩1分
・東京方面 北陸自動車道長岡北スマートICより車で約35分、中之島見附ICより車で約30分
・富山長野方面 北陸自動車道西山ICより車で約30分
・新潟方面 北陸自動車道三条燕ICより車で約30分 |
駐車場 |
有り |
問合せ |
寺泊観光協会 TEL 0258-75-3363 |
同じ聚感園内に行宮御遺蹟碑があります。
承久の乱の結果、佐渡へ遷流になった順徳上皇の追慕のあらわれで、故本間建四郎氏ら町の有志の篤志によって、大正11年に建設されました。この巨大な碑面には、漢文で長い文章が刻まれています。
なお、順徳上皇が京都から寺泊まで、幾山河の難路をどのように越えてお着きになったかは文献には何も伝えていません。
五十嵐家では「武兵衛屋敷のうち平なる所に行宮をしつらえ申し候」として、邸内に菊の紋章を張りめぐらし、都菊を植えて、手厚くおもてなしをしたと伝えられています。
同じく聚感園に弁慶の手堀井戸があります。
奥州落ちをする源義経主従が五十嵐邸にかくまわれた時、家来の武蔵坊弁慶が義経のために掘ったと伝えられ、残されています。のちに、江戸時代の天保年間に漢学者の亀田鵬斎がこの五十嵐家を訪れた時「弁慶井泉の詩」を作られました。
聚感園の入口から石段を登って行くと、順徳上皇の御神霊を奉祀する越之浦神社があります。
寺泊の豪族五十嵐氏は、順徳帝崩御の悲報を聞き、追悼のため、祀殿を建て、帝の御神霊を奉祀したのです。祀殿脇にある御製碑には三首の歌が刻まれています。
「たのめすはつらきならひと思はましなかなかなりや松に吹く風」
「露も袖にいたくなぬれそ秋の夜のながき思ひは月にみるとも」
「月見ても秋のあはれはあるものをしづ心なくうつころもかな」
南蒲原郡田上村(現田上町)田巻三郎兵衛の三男に生まれ、長じて寺泊の五十嵐家を継いだ五十嵐伊織の墓も、同じく聚感園内にあります。伊織は幼き頃、藍沢南城について学び、皇典を修め、また、長岡藩士篠原某を師にし剣に精進したといわれています。
同士4人と共に、勤皇を志し郷里を出て京都に滞在中、大村益次郎暗殺に加わり、斬首されたのです。時に享年29歳、故郷寺泊の妻や二児を案じながらの最期でした。
聚感園から高台に向かうと、眺望抜群の地に建つ寺泊の総鎮守白山媛神社があります。花崗石の大鳥居から125段の石段の上、海抜30mの所に位置し、寺泊の鎮守さまとして古来町の人々に親しまれ、尊崇されてきました。
ご祭神は伊弉冉尊(いざなみのみこと)と菊理媛命(くくりめのみこと)で、国家安泰と海上安全、地方開発の神として崇められてきました。神域には社殿をはじめ、住吉神社、二面神社等の末社が並び、船絵馬収蔵庫、忠魂碑が建っています。なお、神社の祭礼は5月3日、4日と9月15日です。
白山媛神社の境内にあり、明徳2年(1391)5月、土地の漁師平三郎が夢枕に立った神様のお告げにより、海上に漂流する御神体を取りあげて、ここに祭ったといわれています。
御神体は横39cm、縦82cmの板に、網を持って魚を獲る西洋人と思われる人物像を透かし彫りにしたもので、奇異を感じる一躰男女の像があります。祭礼は3月と9月の2回行われますが、春は女神の像を正面に、秋の祭礼の時には反対に男神の像を正面に向ける習慣になっています。