栃尾城跡
栃尾城は天平年間(729~748年)に防人の在営地として築かれたと伝えられています。防人とは九州の防備にあたった人たちのことですが、蝦夷地を治める為の前進基地においても防人といったかどうかははっきりしません。しかし、非常に古い時代からここに城塞が築かれていたことは明らかなようです。
栃尾に関する文献、栃尾案内には、「天平年間、当国防人の在営地にして、その後、佐々木、北条家の国主毎に重将を置き守城せしめり・・・」とあります。この佐々木氏は源頼朝の家臣であったのですが、その後執権北条氏の一族が越後を支配しました。
室町期になると越後守護には上杉憲顕、芳賀禅可、再び上杉氏となり、守護代に長尾氏がなって越後の経営にあたりました。
栃尾城には古志長尾氏の重将が代々就任しましたが、栃尾城の名前が文献にあらわれてくるのは、南北朝に入ってからになります。そして、栃尾城将として史料にはっきり名前の出てくる最初の人物は景虎の力添えとなって八面六臂の活躍をした本庄実乃です。
栃尾城は鶴が羽を広げたような険しい山並みを利用して築かれています。標高227メートルの鶴城山の頂に8メートル×50メートルの本丸を築き、その腰回りに野面積みの石垣をめぐらせ、ここを中心にして北に松の丸・三の丸・五島丸とつながり、南に二の丸・中の丸・びわ丸・馬つなぎ場と続いています。それぞれの郭の間は空壕で独立させてあり、中でも松の丸と三の丸の間の壕は栃尾城最大のもので長さは200メートルにもおよんでいます。山城にとって最も大切なものの一つである水は、金銘泉と銀銘泉の二つがあり、夏でも枯れることがありませんでした。
常安寺
瑞麟寺梵鐘
●関連情報
梵鐘
秋葉神社
市内楡原岩野の地に蔵王権現がありました。大同年間に奈良から勧諦されたもので、越後一の修験道場であったと伝えられています。その後、三島郡の矢田、長岡の蔵王(現在の金峰神社)に移されました。その末社が秋葉権現で、天文20(1551)年に謙信公が開基のしるしとして常安寺に寄進したものです。
常安寺住職門察和尚に対し、「先年不慮の戦争の折には大変忠信をつくされた。それで開基のしるしとして般若院並びに法用寺分を寄進する」という寺院宛行状を与えています。
現在の建物は安永5(1776)年に建てられたもので、平成8(1996)年に一部改修されました。また、奥の院は建物自体が入念で美しく、また石川雲蝶作の彫刻が見事です。
●関連情報
秋葉神社(秋葉三尺坊拝殿)
秋葉三尺坊奥の院
謙信公銅像
謙信廟
●関連情報
謙信公兜の前立
<文化財>
上杉謙信五言対句
「忠心懸日月」 (忠心は日月に懸かり)
「孝義重丘山」 (孝義は丘山より重し)
謙信公は学問を好み、和歌や詩にも優れ、特に書道にその才能をあらわしています。
この書は謙信公直筆の五言対句です。力強く勢いのある線から旺盛な体力と積極的な気迫が感じられ、謙信公の心構えや思想を良くあらわしており、威厳のあるまさに王者の風格をみることができます。
所在地 | 県歴史博物館 |
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時代 | 戦国時代 |
指定 | 新潟県 |
●関連情報
上杉謙信筆五言対句
<文化財>
紙本著色 上杉謙信並二臣像
この幅は室町時代の武将肖像画の形式を襲うものとして、昭和44年新潟県文化財に指定されました。
床几に座った謙信公の前に卓子があり、三鈷杵、鈴、花台、燭台をのせ、側らに水瓶を置いています。家臣の一人は剣を持ち、もう一人は三宝に盃をのせ、片手に酒注を持っています。右は鬼小島弥太郎、左は直江山城守と言われています。
所在地 | 県歴史博物館 |
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時代 | 戦国時代 |
指定 | 新潟県 |
●関連情報
紙本著色 上杉謙信並二臣像
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