第3回 ビールで日本を守る
イギリス、ドイツと不本意な放浪を続けてきた中川清兵衛ですが、ついに青木周蔵の紹介でビール醸造という仕事に取り組み、一人前の職人と認められます。
ドイツから北海道へ
修業証書を得た清兵衛は、恩人青木を訪ねます。ドイツ公使に出世していた青木は、日本での仕事を世話してやろうと、北海道開拓使の長官である黒田清隆に推薦状を書いてくれました。
<北海道には大麦も氷もある。寒冷な気候も向いているから、ぜひビール醸造を検討すべきだろう。ついては今般、日本人の麦酒醸造人が誕生したのでご推薦申し上げたい>
北海道開拓使ではビール事業が検討されており、この明治八(1875)年には英国からホップの苗が届いています。絶好のタイミングでの推薦状です。清兵衛の努力が運を呼び込んだのでしょう。
清兵衛は、その手紙の後を追うように、十年ぶりで故郷日本の土を踏みます。明治八(1875)年の夏のことでした。
北海道開拓使とビール
北海道開拓使は、明治二(1869)年に対露防衛と産業振興の目的で設立された国家機関です。
指揮を執る黒田清隆は約四十の工場を建てますが、その一つにビール事業を選びました。開拓使を指導するケプロンの勧めもあり、またその部下のアンチセルが野生ホップを発見していました。北海道ではホップ栽培が可能だと分かったのです。
黒田はとりわけビール事業に熱心でした。ビール産業を興せば、大麦やホップなど新しい農業が根付きます。工場では人が雇えます。出来上がったビールは、函館で外国船に売れます。つまり外貨が獲得できます。この時代の外貨は貴重でした。
黒田はもともと薩摩の侍大将で戊辰戦争を戦ってきています。この時代の戊辰戦争の認識は、南蛮貿易で外貨を握った薩摩が幕府より新しい鉄砲を手に入れたから勝てた、というものです。黒田も外貨の大切さを分かっています。
ビールは西洋文明の象徴です。外交の場に国産ビールを出すことは、日本が文明国である証拠です。列強の植民地になるような野蛮な国ではないと主張できます。つまりビールは日本を守る武器でもあったのです。
村橋久成と出逢う
明治八(1875)年八月、ドイツから帰国した清兵衛は、開拓使東京出張所を訪ねて、ビール事業担当の村橋久成の面接を受けました。村橋は清兵衛を高く評価し「麦酒醸造人」として雇います。清兵衛に工場建設から醸造まで技術関係のすべてを任せ、事務関係は村橋自身が担当することにしました。三十三歳の村橋と二十七歳の清兵衛という若いコンビの誕生です。こうして日本人による初のビール工場建設計画が始まりました。
この二人には不思議な縁があります。村橋も英国に密航していたのです。それも清兵衛と同じ慶応元(1865)年の春のことでした。二人はイギリスの思い出話をしながら、一緒に新しい事業に乗り出すパートナーとの不思議な絆を強く感じた事でしょう。
(サッポロビール所蔵)
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