第4回 挑戦と失敗と挑戦
ドイツで日本人初のビール醸造技術者となった中川清兵衛は、青木周蔵の推薦で北海道開拓使でビール醸造の全てを任されることになりました。
醸造所の建設
▲明治9(1876)年9月23日
北海道札幌にて開拓使麦酒醸造所の
開業式での記念写真
(サッポロビール所蔵)
失敗から改良へ
明治九(1876)年九月、清兵衛は麦芽造りに成功します。ここまでは順調でしたが、天候のせいで作業が中断します。
仕込工程は、粉砕した麦芽を煮てお粥にし、漉して穀皮などを取り除きます。その麦のジュースにホップを加えて煮沸して麦汁をつくります。ここで大変なのは、煮沸していた百度から、発酵に適した十度近くまで冷やすという作業です。そしてその低温を二ヶ月は維持する必要があるのです。それなのに暖冬で雪も氷も入手できません。だから、仕込工程に入れないのです。結局、二ヶ月という大きな遅れとなりました。
さらにドイツ渡来の酵母が満足に働かないなど苦難が続きました。それでも清兵衛はさまざまな工夫を積み重ね、翌年六月にビールを完成させます。
待望の初出荷です。氷とともにビールが小樽を出帆し、東京に向かいます。政府首脳に贈られるビールは、東京から京都へと転送されました。多くの要人は、京都に設置された西南戦争の政府軍本営に詰めていたのです。
黒田清隆は、陣中見舞と称して初醸造のビールを贈れば開拓使の評判が高まるぞ、と意気込んでいました。しかし、当時の最高権力者である内務卿大久保利通に贈られた十二本は、コルク栓が抜けてビールがすべて流出していました。長距離輸送に耐え切れなかったのです。赤っ恥をかかされた黒田の、怒りの電報が残っています。
清兵衛はこの失敗もコルク栓の改良に繋げました。
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