第2回 ドイツで運命を拓く
故郷与板を十六歳で飛び出し、横浜を経て英国に密航を果たした中川清兵衛は、その七年後、ドイツでついに運命の扉を開きます。
青木周蔵と出逢う
ある日、清兵衛の働く家にベルリンの留学生青木周蔵が訪ねて来ました。青木は偶然この家のドイツ人に招かれたのですが、東洋人の顔をしたボーイに出逢って、思わず声を掛けました。
「おい、お前は日本人ではないか。なぜこんな所にいる」
「はい、日本人です。実は・・」
聞いてみると才気煥発、きわめて優秀です。その一方で、命がけで海外渡航を果たす勇気も持っています。英語もできますし、ドイツ語も話せます。埋もれさせるには惜しい逸材です。しかし基礎となる学問も金も家柄も何もありません。青木自身も留学生ですから多くは支援できません。
青木は妙案を思いつきました。働きながら学べるような仕事を見つければよい。
「おい、腕で身を立ててみろ。俺が技術を身に着けられる仕事を世話してやる」
「はい、ありがとうございます」
ビール醸造を学ぶ
▲明治8(1875)年5月1日
ビール醸造技術修業記念写真
フュルステンバルデ工場幹部とともに
(右端が清兵衛)
一人前と認められる
清兵衛は必死にビール醸造を学びました。そして二年二ヶ月後の明治八(1875)年五月に修業証書を授けられました。
<1873年3月7日から今日に至るまで旺盛な興味と熱心さをもって、ビール醸造および製麦の研究に精励し、よくその全部門にわたり優れた知識を修得し、ヨーロッパにまで来訪した目的を達成した。有能にして勤勉な他国の一青年を教育し得たことは、我々の大きな喜びとするところである。彼を送るのは忍びがたいものがあるが、心から前途に幸多かれと祈るものである>
ビールの本場ドイツで、一人前だと認められたのです。どんなに嬉しく、また誇らしかったことでしょう。命がけで国を飛び出して、ついに結果を出したのです。
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