第1回 与板から世界へ
日本のビール醸造の父
▲麦酒醸造所勤務の頃の
中川清兵衛
与板を出て横浜へ
嘉永元(1848)年、清兵衛は与板藩の御用商人扇屋の一族に生まれました。幼名を直治郎といいます。扇屋は本家の中川弥五兵衛家と、分家で「丸津」と称した中川津兵衛家からなり、清兵衛の父卯平は丸津から分家して「茶屋丸津」を名乗りました。清兵衛は丸津の養子となり跡を継ぐよう定められます。
しかし嘉永六(1853)年の黒船来航に始まる文明開化への流れは、清兵衛に新たな眼を開かせました。清兵衛が十五歳となった文久三(1863)年、幕府は与板藩に異国船接近に対する海岸警備を命じます。
清兵衛は幼い時から秀才で勉強熱心でした。この時代の秀才たちの眼は外国からの情報に向けられます。それは列強による侵略という脅威でもあり、新しい文明への憧れでもありました。清兵衛も海外への思いを捨てきれず、丸津の跡継ぎという運命に逆らって、ついに十六歳で家を出て横浜に向かいます。
国禁を犯して海外へ
横浜に着いた清兵衛は、ドイツ商館住み込みのボーイになりました。そして慶応元(1865)年四月、なんと英国に密航したのです。
嘉永七(1854)年に日米和親条約が締結されて鎖国は終わりましたが、一般の海外渡航はまだ国禁でした。見つかれば死罪すら覚悟せねばなりません。しかし海外で学びたい一心の十七歳は命がけで渡英します。
しかし金も伝手(つて)もない少年が、異国で成功できるはずもありません。七年後、食い詰めてドイツに渡ります。
北ドイツの港町ブレーマーハーフェンで得た仕事は、またしてもドイツ人宅での住み込みのボーイでした。清兵衛は嘆きます
「自分は、こんなことをするために故郷を捨てたのではない。なんとか西洋文明の一端でも学びたいものだ」
しかし、ついに運命の女神が清兵衛に微笑んだのです。
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