最終更新日 2016年4月1日
長岡市
市町村の花 ツツジ
市町村の木 けやき
長岡市の歩みと性格
長岡市は、ほぼ中央を日本一の大河信濃川が流れ、東西には、東山連峰、西山丘陵地がそれぞれ連なり、恵まれた自然環境に囲まれた、県内第三の都市である。上越新幹線で東京から約80分、関越自動車道で都内から3時間の距離にあり、首都圏との結びつきは強く、また、日本海側における北陸、東北方面への分岐点でもあり、交通の要衝となっている。
長岡のまちの原型は、江戸時代初めの長岡城の築城とともに形成され、明治の初めまで約250年間にわたって七万四千石の城下町として栄えた。明治39年4月には市制を施行、商業・工業などあらゆる面で、新潟県・中越地区の中心として発展してきた。明治維新の戊辰戦争と昭和20年の長岡空襲の二度の戦災によって、壊滅的な被害を受けたが、人々は不屈の努力で立ち上がり、まちの復興を成し遂げた。復興後は周辺市町村との合併が進み、昭和35年におおむね現在の長岡市となり、平成5年に地方拠点都市の指定を受けてからは、周辺13市町村の中心都市として市域を越えた広域行政を展開している。
「戊辰戦争に敗れ、焦土と化した長岡のまちに、支藩である三根山藩から見舞いとして送られた米百俵。長岡藩大参事の小林虎三郎はこの米を藩士らに分配せず、国漢学校設立資金の一部に充てた-。」目先のことだけではなく、将来のことを考えて人材を育てようというこの米百俵の精神は、長岡のまちづくりを進める上の大きな指針として、今も受け継がれている。また、平成13年5月、小泉純一郎首相の所信表明演説の中で取り上げられたことにより、「米百俵の精神」は全国で注目されるようになった。
産業面では、古くから交通の要衝にあり、商業のまちとして栄えてきた。明治の中ごろには、石油の掘削に端を発し、工作機械の関連産業が興こり、これを基盤にして近年、機械、電気、金属製品などの高付加価値型産業へと発達してきている。
観光面では、全国的に有名な長岡まつりの大花火大会や悠久山の桜まつりなど四季折々のイベントを行っている。また、千秋が原ふるさとの森、国営越後丘陵公園、県立近代美術館、県立歴史博物館などの施設が整備され、多くの人たちが訪れている。
長岡市が形成された歴史図
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