江戸時代、上山藩(現在の山形県上山市)の領地は、三万石あり、そのうち越後の分領地は、三島・刈羽郡の54カ村一万四千石であったとされています。その分領地を支配するため七日市村(現在の長岡市七日市)に、陣屋がおかれました。
分領地を治めるためには、文武両道を本とせねばならぬとの考えから、当時上山藩の藩校であった明新館の支館を越後分領地の陣屋のある七日市村に建設されました。
この明新館支館には、藩士の子弟はもとより、領内の庶民の子弟でも入学を志願するものには許可し、郷土の子弟を教育するのを主眼としていました。
領民も平素は農業に従事していても、事あるときには武器をとって領地を守らなければならぬという気持ちで文武の錬磨を盛んに行ったとされています。
この支館は、明治の時代に学制頒布により七日市佼となり、更には日吉小学校へと続いています。
その支館跡が、この地にあった証として現在は、石碑が建立されています。