「右般若院分並法用寺如前々不可有相違候、仍如件 天正9 8月29日 景勝 花押 常安寺」
(右般若院分並びに法用寺については、前々の如く相違ない。)
天正6年(1578)3月、謙信が没するや、養子の景虎と景勝が相対峙し、越後は再び戦乱の渦に巻き込まれました。これを御館(おたて)の乱と呼びます。
栃尾城主本庄秀綱は、景虎を応援する一方の旗頭であったが、戦は利あらずして次第に敗戦に追いこまれていきました。
秀綱は最後まで頑強に抵抗しましたが、やがて景勝が栃尾に出陣するに及んで、天正8年(1580)4月ついに栃尾城は陥落しました。城兵は四散し、その武士と密接な関係にあった郷民は動揺、不安の日々を送りました。
景勝はそうした郷民の不安を除く為、戦争処理の終わった翌年2月に、古くから長尾家と深いつながりをもってきた守門神社と、景勝の父謙信の建立した常安寺に対し、社領及び寺領を安堵すると伝えました。
掲出のものは8月にだされた常安寺への安堵状で、上杉謙信が天文20年(1551)に常安寺開基の験(しるし)として寄進した般若院と法用寺の寺領を、先例にならって保障をするというものです。
<長岡市指定文化財>